SS 1
わらし
座敷わらしは日本に古くから伝わる妖怪伝説の一つであり、現在も東北地方において多くの目撃情報がある。
東京の郊外に居を構えている男は、決まって同じ時期になると東北の温泉にある旅館を訪れていた。
四十年間勤めた会社はすでに定年を迎え退職していた。
男の人生は決して平坦なものではなかった。男は妻と子供を一度になくしていた。
男が仕事を終えて帰宅し、目にしたものは壮絶な光景だった。
いつも笑顔で迎えてくれる妻も元気な息子の姿もなく、部屋の灯も消えたままだった。不審に思いながらも、灯りをつけて目に入ってきたものは一面の赤だった。赤は血の跡だった。玄関のあがり場に広がる血だまり、血だまりから奥へと二本の太い線がのびていた。男は靴を脱ぐのも忘れてリビングに向かった。リビングの扉を開けると、月明かりに照されて妻と息子がいた。妻と息子は月明かりの下で寄り添うようにソファーに座っていた。男はその場に崩れ落ちた。
三〇年以上が過ぎるというのに、今でも鮮明に男の脳裏に焼き付いている。
警察の懸命な捜査にもかかわらず犯人は捕まらなかった。強盗なのか猟奇的なのか、それすらも不明だった。事件後も男は一人でその家に住んでいた。
男が東北の旅館を訪れたのはほんの偶然だった。気のみ気のままの旅だった。突然の宿泊客を若く美しい女将は温かく迎えてくれ、ちょうど一つだけ空いていたという客室まで案内してくれた。落ち着いた雰囲気の感じのいい部屋だった。
男は温泉にゆっくりと浸かり、食事に舌鼓をうった。用意された布団はふかふかで、悪夢を見ることもなくぐっすり寝られそうだった。
男は小さな物音で目を覚ました。小さな音は廊下を走る子供の足音だった。宿泊客の子供が遊んでいるのだろう。遅い時間ではないしと、男は特に気に留めなかった。足音は暫く続き、部屋の前で止まった。部屋に入ってくる気配はない。とがめる気もないが、迷っているのなら案内しようと男は部屋の扉を開けた。
五歳くらいの今時には珍しいおかっぱ頭のかわいい女の子が立っていた。
女の子は旅館の子らしく、ここに住んでいるのだと教えてくれた。そして一人で遊ぶのはつまらないので一緒に遊んでくれと誘った。男は息子と同じ年頃の子の申し出を快く受けた。夜も更けてしまい、そろそろ部屋に戻って寝るように女の子に告げると、女の子はここが自分の部屋だと聞き分けず、仕方なく女将には明日の朝の早い時間に知らせることにして、女の子と一緒に布団に入った。男が翌朝に目を覚ましたとき女の子の姿はすでになかった。
男は見送りに来た女将にもてなしの礼を述べた。そして女の子を遅くまで遊ばせてしまったことを詫びた。女将は怪訝な顔をしたまま、しばし無言だった。
「私たち夫婦には子供がおりませんの。古い建物ですので座敷わらしでもでたのでしょう」
男はご冗談をと笑いながら旅館を後にした。それから男は同じ季節になると旅館を訪れた。女将の話に嘘はなく、その証拠に女の子はいつまでたっても変わらずに五歳のままだった。
今年も旅館を訪れる時期になった。しかし今年は行けそうになかった。男の体は病に冒されていた。もう病床から起きあがることはないだろう。
薄れゆく意識の中で男は軽やかな足音を聞いていた。足音は男の寝台の傍らでぴたりと止まった。
男にとって懐かしく心を温かくする見知った気配だった。
気配の主を求めてさまよう男の手に小さな手が重ねられた。
死期を悟った男が最期に思い出したのは女の子の笑顔だった。やがて女の子の笑顔はゆっくりと息子の笑顔になり、妻の笑顔となった。
