SS 2

かっぱ

夕暮れも過ぎのもうすぐ暗闇が訪れる頃、男は家路を急いでいた。帰宅ラッシュの時間はとうに過ぎているため人通りはなかった。それでも男にとってはいつもよりずっと早い帰宅だった。

連日の残業で日付が変わってからの帰宅が続いていた。久しぶりの早めの帰宅と、明日は土曜日で会社が休みということも重なって、男の足取りは軽やかだった。男は三十路になろう頃の独身であり、一人暮らしだった。家は駅から徒歩で十五分ほどのところにあり、大きな川を越えた先の住宅街にあった。

男は大きな川に架けられた橋にさしかかった。

川の両岸にはコンクリートが整然と敷きつめられ、土手には芝が植えられていて川は綺麗に整えられていた。川に沿って作られた遊歩道に設置された外灯が川岸をほんのりと明るく照らし、川岸に作られた公園も外灯により照らされていた。視線を公園から川へ移すと水際に人影があった。

時折、夜の公園で遊んでいる人を見かける。だから人がいてもおかしくはないのだが、このときに限って辺りは静かで音もなく、影の存在だけが際だち男の興味を引きつけた。なにかの物音や誰かの話し声でもあったならば、気にも止めなっかったであろう。

橋の上からでは影ははっきりとは見えず、正体はわからない。しかし影は男の子であると男は確信していた。

男が家へ帰るためには橋を渡りきったところを、公園とは反対の方向に曲がらなければならない。しかし男の足は自然に公園へと向いていた。影の近くまで来ると男の子であることが確認できた。男は影に声をかけた。
「もう暗いから、帰らないと家の人が心配するよ」

振り向いた男の子は不思議そうに男の顔を覗き込むようにじっと見ていた。
「迎えを待っているのかい?」

返答はなかった。見知らぬ人に声をかけられて驚いているのだろうか。
「おじさんの名前は龍一朗。柴山龍一朗って言うんだ。君の名前はなんて言うんだい?」
「永二。川野永二」
「永二君か。いい名前だね」

龍一朗の知る限り、川野という姓の家はない。
「永二君はこの町に越してきたばかりなのかい?」

龍一朗の質問に永二は答えずにうつむいてしまった。永二は目に涙をたくさんためてこらえていた。今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
「お母さんに怒られたのかい?」

永二は首を左右に振った。振ったひょうしに瞳から涙がこぼれ、いったんあふれると後は止めどなくこぼれた。
「帰り道がわからない。どうしよう。家に帰れなくなっちゃった」

永二はしゃくり上げながら泣いていた。龍一朗は永二の頭にそっと手を置いた。

永二が落ち着くのを待って、龍一朗は永二の手を引きながら駅の近くにある派出所を訪れた。やはり川野という姓はこの辺りにはなかった。すでにもう手詰まりであった。

永二は小学校に入学したばかりの年の頃であろう。小さな子どもの足だ。家はさほど遠くないところにあるに違いないのだが、永二は母親の名前はもちろん父親の名前も覚えていなかった。知らない土地でのひとりぼっちの心細さがパニックを引き起こし、思い出せずにいるのだろう。念のため住所を尋ねてみたが、泣きながら首を横に振るばかりだった。

こちらから親御さんに連絡しようにも、永二は手がかりになるようなものを、いっさい身につけていなかった。永二は財布も所持しておらず、携帯電話も持っていなかった。それと永二らしき子の捜索願も出されていなかった。もっとも捜索願を出すとしても、いなくなってすぐには出さず二、三日様子を見てから出すであろうから、この件については予想の範囲内ではあった。

龍一朗は親御さんと連絡が取れるまで永二を預かることにし、自宅の連絡先と自分の携帯番号を教え、何かあったら連絡を寄越すように告げて派出所を出た。

駅近くのファミレスで食事をすませ、コンビニで買い物をして、なんだかんだで家に帰り着いたのは二三時を過ぎていた。

とりあえず入浴をすませ寝ることにした。ベットは一つしかないので永二にベットをあてがい、龍一朗はリビングのソファーを使った。龍一朗はしばらく起きていて、寝る前に永二の様子を窺ったが、よく眠っているようだった。たとえ二、三日でも何もないのは不便だろうから、明日は永二のものを買いにでかける計画をたてて龍一朗はそっと扉を閉めた。


翌日は晴天だった。出掛けるのに気持ち良い天気だ。しかし永二は日光が苦手だから出掛けたくないと言う。仕方がないので買い物は夕方に行くことにした。永二は朝から風呂に入りたがった。風呂が好きなのだろうか。それともきれい好きなのだろうか。

三日経っても派出所からの連絡はなかった。すぐに永二を帰せるだろうと思っていたのだが、予想はみごとに外れてしまった。

仕事も一段落ついていたので二日だけ有休を取ったが、あまり休むわけにもいかず永二を一人家に残すのも心配だったが仕事に行った。帰宅途中に派出所に寄ったが、永二の捜索願は出されていなかった。警察官の話では、最近は子供がいなくなって一週間以上経ってから捜索願を出す親がほとんどだそうで、だからもう少し待つように言われた。最近の親の話はおいといて、小さな子にとって、ひとりぼっちの寂しさは大人が考えるよりはるかに大きい。一週間以上も放っておく親の気が知れない。

家へ帰ると永二はソファーの上で眠っていた。そっと髪に触れると、乾ききっていない髪が風呂あがりなのだと教えてくれた。時計を見ると日付が変わっていた。それでも起きて龍一朗の帰りを待っていたのだろう。龍一朗は永二を抱えベットまで運んだ。永二はぐっすり眠っていた。

永二は龍一朗のことを龍と呼び、よく懐いていた。しかし永二の置かれた状況を考えれば、寂しくないはずがない。泣き喚いてもおかしくない状況だが、心配をかけないようにと気遣ってか、永二が我が儘を言うことはなかった。明日の仕事は早めに切り上げ、夕食は永二の好物を食べに行こう。龍一朗にとっても、永二はかわいかった。

しかし、早く帰りたい日に限って仕事は終わらなかった。次から次へと急ぎの仕事が舞い込んできて、処理が追いつかない。終電までに終わる量ではなかった。龍一朗は泊まり込みを覚悟した。

職場に泊まったにもかかわらず、帰宅は真夜中近くとなった。永二はとっくに眠っているだろうと思ったが、風呂に入っているようだった。それはそれで都合がよい。日頃は簡単にシャワーですますのだが、シャワーだと汗は流せるが疲れはとれないような気がするのだ。やはり疲れをとるには、湯船にゆったりとつかるのが一番である。龍一朗は風呂場の扉を開けた。

龍一朗がシャワーで軽く汚れを落としていると、湯船に頭まで浸かっていた永二がぷかりと浮いてきた。目から上だけを湯船から出して龍一朗を見上げていた。
「俺も入るから、少し端に寄ってくれ」

永二はすっと端に寄った。龍一朗は湯船に右足をつけた。龍一朗の足はそこで止まった。湯船はお湯ではなく水だった。龍一朗は足を戻した。
「お前、水風呂に入ってんのか? 寒くないか?」
「平気。お湯より水が好き」

龍一朗はシャワーですますことにした。

風呂場から戻った二人は、龍一朗がコンビニで買ってきた惣菜で軽い食事をとった。もう夜も遅かったが、永二がせがむので二人でゲームをした。一人で寂しい思いをさせてしまったお詫びもあった。

十日が過ぎたが派出所からの連絡はなかった。

龍一朗は永二のことを記載したビラを周辺に配って歩いた。

永二の記憶は戻っていない。パニックが収まるのに必要な日数はじゅうぶん過ぎたはずである。周辺で事件があったとの記事や報道を目にしてはいないが、世間には取りざたされない事件はいくつもあるだろう。永二がなんらかの事件に巻き込まれて受けた恐怖と衝撃により、記憶を失ってしまったとも考えられる。だとすると記憶はいつ戻るかわからない。いつ出されるともわからない捜索願を待ってばかりもいられない。小さい永二がふびんに思えて放っておけなかった。

永二はぼうと外を眺めることが多くなった。家に帰りたいのだろう。

永二にはビラのことは内緒にしてあった。状況をつきつけられ、さらに寂しい思いをさせたくなかった。


龍一朗は週末に再びビラを配った。帰りに川沿いの公園で永二を見つけ、側まで行き声をかけようとしたが躊躇した。人なつっこい永二の雰囲気はなく、とげとげしさに声をかけるのがためらわれた。躊躇してるあいだに永二が龍一朗に気がつき振り返った。いつもの永二だった。
「夕食を食べに行こうか。どこでも、なんでも、永二の好きなものを食べに行こう」
「ファミレス」

永二のすばやい答えが返ってきた。

二人は手をつなぎ、駅近くのファミレスに向かった。

夜は永二の要求に応えてベットで一緒に寝た。仕事から帰るのが遅いため寝る時間が合わないこともあって、一緒に寝るのは初めてだった。

二人でベットに入ると永二がぽつりと言った。
「俺、ずっと、ここにいたい」

隠そうとしているが明らかに涙声だった。
「俺、龍のこと大好きだよ。だから龍のそばにいたい。でも、もうここにはいられない。ここには住めないんだ。だから俺、行かなきゃ。新しく住むところを探さなきゃ」

龍一朗は永二の肩にそっと手をおいた。龍一朗は永二の涙を別れの寂しさだと思いこんでいた。
「いつでも好きなときに遊びに来ればいいさ」

永二は頷いて龍一朗の腕の中で眠った。

翌日、永二は家まで送るという龍一朗の申し出を断り、公園まででいいと言ってゆずらなかった。

公園は時期外れの濃い霧に包まれ、一メートル先が霞んでいた。
「龍にあえて良かった。皆が龍みたいだったら良いのに」

小さい体からは大きな不安と強い決意が感じられた。
「龍のところに遊びにきてもいい?」
「もちろん」

龍一朗は右手を差し出した。永二の小さな手が添えられた。二人はかたく握手を交わし、再会を約束した。

ゆっくりと繋がれた手がはずされ、永二は背を向けて歩き出した。永二の背はすぐに霧の中に消えて見えなくなった。遠くでなにかが川に飛び込む音がした。龍一朗は一人残された寂しさを感じつつ、公園を跡にした。

三年後、龍一朗は結婚し、さらに一年後に、息子が生まれた。

住宅街にある川の上流で、見慣れない子供が遊んでいるという噂をよく耳にする。噂には続きがあって、子供に声を掛けようとすると子供は川底に消えてしまうのだそうだ。そしていつまで経っても浮き上がってこないという。きっと永二に違いない。龍一朗がやって来るのを待ちながら、人が来ると顔を出して様子をうかがい、龍一朗ではないとわかると川底に深く潜って隠れるのだろう。遊びに来ればいいものを子どもながらにも遠慮しているのだろう。

龍一朗は永二がいなくなってから永二の言葉を並べてみた。順序だてて追ってみると永二の正体がはっきりと浮かんできた。

永二は河童だ。住宅街の川に住んでいたが、新しいすみかに移らなければならなくなった。住めなくなった理由はだいたい想像がつく。人の手により整備されすぎた川は自然を好む生き物にとって住みにくくなってしまったのだ。長年住み慣れたところだ。離れたくないのは当然だろう。しかも永二にしてみれば、人間にすみかを追われるかたちになる。少なからず人間に対して憎しみを持ったであろう。人になんらかの危害を加えようと、姿を現わしたとしても不思議ではない。しかし永二は人に危害を加えることなく新しいすみかに移っていった。

以前住んでいた川の上流を新しいすみかとするあたりは、なんとも子どもらしい。しかも完全に姿を隠すでもなく、わずかに姿を現しては龍一朗に存在を知らせるあたりが、ほほえましくかわいらしく思えた。

息子がもう少し大きくなったら、息子を連れて永二に会いに行こう。息子がもっと大きくなったら、河童との奇妙な物語をはなしてきかせよう。

いつか永二は気付くだろうか。永二が呼んでいるように龍一朗の名は龍なのだということに。

龍一朗は永二が元気に川で泳いでいる姿と、再会するときを思い浮かべながら息子をあやした。

―― 完 ――