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SS 4

匂い水

私はただひたすらに水を飲み続けた。どれくらいたったのか覚えていない。薬を届けている村の男が二、三人やって来て、私は村まで運ばれていった。何故とか、どうしてとかという疑問は浮かばなかった。気がつくと見知らぬ天井が見えた。横を向くと、側に見知った顔があった。同僚ではなく村の男だった。男は体の状態を訊ねてきた。私が異常ないと返答すると、そのままここで待つように告げ、部屋から出ていってしまった。

私は半身をゆっくりと起こし、辺りを見廻した。部屋の一辺だけが障子の扉で、残る三面は襖で仕切られていた。手の込んだ細工を施した欄間があり、立派な梁が見えた。造りは和風だが、床の間はなく、ただの四角い部屋だった。私はそこに敷かれた布団の上にいた。

やがて障子が開かれ、退室した男に代わって村長が入ってきた。
「体は何ともありませんか?」
「はい。何ともありません」
「洞窟でのことは覚えていますか?」
「いえ。水を飲んだことしか覚えてません」
「どれくらい飲んだかわかりますか?」
「いえ、まったく…」

泉に口を浸けたところまでは、はっきりと覚えている。しかし、その後のことは、まったく覚えていなかった。記憶が切り取られたように、すっぽりと抜け落ちていた。ぼんやりと霞んでいるのではなく、まったく記憶が無かった。
「実は、あの水には幻覚作用があって、さらに飲んだ人間に死をもたらすと言われています。しかし案ずることはありません。麓の製薬会社に水を調べてもらったのですが、毒となる成分は含まれていないそうです。ただの迷信でしょう。幻覚の方も噂にすぎません。最も、泉の水を飲んだ後のことは覚えていないと、皆が口をそろえて言うので、確かめようがないのですが」

村長に言われて、私は少しほっとした。
「先ほど会社のほうに連絡しておきました。すぐに迎えにこられるそうですよ」

聞いてすぐに同僚の顔が浮かんだ。私が居なくなって心配しているだろうか。こっそり車に乗り込んだ後ろめたさはあったが、麓の街に戻りたかった。

村長と世間話をしていると、あわてた様子の足音が近づいてきて、障子が勢いよく開け放たれた。
「大変です!!麓の製薬会社で事故があったようです」
「事故?」

私と村長は顔を見合わせた。
「事故って、いったい何があったのですか?」
「詳しいことは解りません」
「そうですか…」

同僚は無事だろうか。会社はどうなっているのだろう。
「心配せずとも、二、三日もすれば、製薬会社から連絡が来るでしょう」

私は以前に同僚から教えられた、村にある車のことを思い出した。
「確か村のみんなで使っている車がありましたよね」
「車はありますが、ガソリンが入っていないのですよ。お恥ずかしいことです。たいしたおもてなしもできませんが、どうぞゆっくりしてしていってください」

車は使えない。しかし歩いて麓へ下りる気はしない。おとなしく迎えを待つしかないようだ。私は村長の家でやっかいになることにした。
「時間もできたことですし、水に関わる噂話の真実を確かめに、洞窟に行きませんか?村からさらに上がったところに洞窟はあります。二人で洞窟の泉まで行き、あなたが水を飲むのです。私が側であなたの様子を見守り、噂が本当かどうか確かめます。本当に幻覚を見るのかどうか、確かめに行きませんか?もし本当に水を飲んで幻覚を見るのならば、村の長として、洞窟を立ち入り禁止にして、水を飲めないように安全対策を講じなければなりません。ご協力願えませんか?」

私は簡単なことだと、軽く請け合った。

私たちはその日の夜に洞窟を訪れた。見上げた空に満月があった。私たちはそれぞれ懐中電灯を手にして、洞窟の奥に入っていった。泉は変わらずに静かにたたずんでいた。私はあの日と同じように泉の中央まで入っていき、両手で水をすくった。わずかに飲むのがためらわれたが、村長に促されるまま、私は水を飲んだ。

あれほど特別な水だと思っていたのに、ただの水だった。なんだか拍子抜けした気分だった。

振り返った私の視界に捕らえた村長の顔が奇妙にゆがみ、私の意識はそこで途切れた。


洞窟の奥にある泉の中央付近で、水に浸り倒れている男がいた。

水面は揺れもせず鏡のように静かだった。男は懐中電灯の明かりに照らし出されていた。三つの弱い明かりが男の体を丹念に調べるように照らしていた。
「久々の完全体だな」
「今ままでの中でも最高の完全体だな。これだけのものはなかなか手に入らないだろう」
「ついにあの方にふさわしいものが手に入ったな」

男は皮膚だけの存在となっていた。服のように薄っぺらい。皮膚の下にあったものはすでに溶け、体の外へ流れ出て、泉の水と混じり合っていた。
「さっそく、あの方に入っていただこう」

洞窟のさらに奥の奥からずるずると引きずる音を響かせながら何かが近づいてきて、ゆっくりとした音は泉のほとりでぴたりと止んだ。音だけで姿はみえなかった。

音の止んだ箇所からゆったりとした水流が、皮となった男のところまで続き、皮だった男は再び人間の形を成していった。

男はゆっくりと立ち上がり、ほとりまで歩いて行くと泉からあがった。

男はほとりで待つ三人に恭しく迎えられた。
「体の具合はいかがですか?」
「お気に召しませんか?」
「ならば、違う物をご用意いたしましょう」
「いや、問題ない。良い物を用意してくれた」

男たちは跪き、深々と頭を垂れた。


私は四角い部屋で目を覚ました。側には村長がいた。
「洞窟で倒れたんですよ。覚えていますか?」

私は無言だった。夢を見た。夢の最後で三人の男たちが跪いていた。村長と製薬会社の医療施設にいた医師、そして同僚が、私に跪いていた。
「何か見ましたか?」

私は覚えていることを正直に話した。

「それは良かった」

私が怪訝な顔をすると、村長はにっこりと笑った。
「覚えているということは共存の証」
「共存?」
「そうです。あの方とあなたは共存しているのです。しかし共存の時間は長くありません。やがてあなたはあの方に取り込まれるでしょう」

何を言っている。何の話だ。夢ではないのか。幻覚ではかったのか。
「心配することはありません。これはあなたが見ている幻覚なのですから。おびえる事はありません。幻覚から覚めれば、またいつもどおりの日常が待っているだけです。もう少し横になった方がよいでしょう。そうすれば幻覚も早く覚めるでしょう」

私は促されるまま横になった。思いがけず同僚と医師が私の顔を覗き込んできた。ようやく街から迎えが来たようだ。やっと街に帰れる。同僚のほっとした表情を見て、私は安心して瞳を閉じた。
「香様。早くお目覚めになってくださいね」

同僚の呼んだ名は私の名前ではなかった。あの方の名前だった。
「あの水は特別な水なのだよ。君のような完全体を手に入れるのには、少しばかりの時間と手間が必要となる。しかもやっかいなことに、誰もが完全体になれるわけではない。完全体を造る作業は五段階あり、与えるあの水の割合を調節しながら作業を進めていく。そしてそれぞれの段階で適合者と不適合者に分けられる。第一段階で我々の毒素となる物を取り除き、第二段階で内蔵を溶かす。第三段階で体中を洗浄し、第四段階で溶かした物を外へ出し、第五段階で最終確認を行う。たいがいが第一段階、第二段階で不適合者となる。不適合者となっても捨てはしない。不適合者は我々の養分となる。君が村へ運んでいたもの。今までなんだと思っていた?ただの薬だと思っていたか?我々の養分なのだよ。我々は永いあいだ、そうやって生きてきた。残念なことに我々には毒となる物が多すぎて、そのままでは食べられないのだよ。そのための第一段階なのだよ。第二段階ではそうとうの痛みを伴うらしいね。それに第二段階で中が空洞になるため、それを満たしたいのか、君たちは水を大量に欲するらしいね。第三段階が洗浄なので、大量に水を飲んでもらった方がきれいに洗えて我々も助かるけどね。やっぱり洗浄が不十分だと、我々が中に入ったときに具合が悪いからね。第四段階では、不思議なことに自らが洞窟にやってくる。まるで蜜に引きつけられる蝶のようにね。我々には感じなくとも、人間には感じるものがあるのかも知れないね。だから我々はあの水を匂い水と呼んでいる。君も匂いにさ誘われたのだろう?」

医師は私に語っていたが、私の耳にはほとんど届いていなかった。

水には幻覚作用があって、さらに飲んだ人間に死をもたらす。

噂は本当だった。見たものは幻覚ではないが、あまりにも現実離れしているため、幻覚だと思うのが普通だろう。気づいたところでもう遅い。固く閉ざされた瞳はもう私の意志で開くことはなかった。

―― 完 ――