SS 6
5時55分
老婆は休まず続けた。
「私は塊になった貝の身をナイフでひと口切り取って食べたみた。 特に変わった味もせず美味でもなく、むしろまずくて売り物にはできなかった。 私は仕方なく干物にするために塊を天井から吊して家に戻った。 次の日の朝、海が赤く染まっていた。 これがたたりなのかと目配せをしたものだ。 さすがに赤い海で漁をする気にはなれなかった。海は五日間赤く染まり続けた。 海がいつもの色を取り戻しても魚は捕れず、海の色が戻って魚が捕れだしても赤く染まった海から捕れた魚など買う人もおらず、噂が収まるまで待つしかなかった。 私たちは主に貝を食べて飢えをしのいだ。しかし赤い海から採った貝だったためか、貝を食べて死に至る者が後を絶たなかった。 ついに両親も倒れてしまい、何か栄養のあるものを食べさせてあげたいのだが食料の蓄えもお金もすでになかった。 あるのは海から取れるものだけ。 私はそこでやっと洞窟に吊した貝のことを思い出した。 海が赤く染まる前に採っている。さらに光っていた貝だ。もしかしたら薬になるかもしれない。 まさにわらにもすがる思いだった。 貝は月光に照らされて不気味さをかもしだしていた。 私は急いで家に戻り干物となっていた身と煎じた貝殻を汁にして、今日採れたものだといって村人全員に食べさせた。 全員といっても数十人だった村人ももはや数人だけとなっており、動けるのは唯一私だけであり、他の者はみな床に伏していた。 しかし結局私だけが生き残ってしまった。 私は悲しみに暮れながら日々を過ごした。村を去って新しい土地へ移ることも考えたが、村人を弔うためにもしばらくはここにとどまることにした」列車がトンネルにはいったことを告げるかすかな衝撃波が窓を揺らした。
男がはっとして老婆を見ると、老婆は膝に乗せていた風呂敷包みを丁寧に慈しむように整え直していた。
列車はこの先に続くトンネルをいくつかとおってから海岸沿いを走行するのだ。
男は事前に調べてきた走行経路を頭の中で確認した。
車内にトンネルを走行する音が響き渡る中でも老婆の声ははっきりと聞こえた。
「やがて赤い海の噂も忘れ去られ、捕れた魚も売れはじめてようやく生活が楽になりだしたころ、私は三つ先の村の若者と縁があって結婚することとなり、私はこれを期に村を出た。 すぐに子供もでき、裕福ではないが幸せな日々を送っていた。しかし私の出身が赤く染まった海の村であるということは夫にも秘密だった。 そして大人になった子供が余所の村に嫁いで行き、わたしたち夫婦二人だけの暮らしとなったころ、夫は私を避けるようになり、さらにはあからさまに恐怖の表情を浮かべるようになった。 しばらくして夫は床に伏せがちになり、ついには床から出られない日々が続いた。 献身的に看病するもいっこうに回復せず、夫は静かに息を引き取った。 夫と私は約束を交わしていた。 約束は二つあった。 一つ目は鏡を見ること。二つ目はなにがあってもどんなにつらくても生きること。 悲しみにくれながら私は意味もわからず一つ目の約束を果たすべく、あの日海で拾った鏡を手にして覗き込んだ。 全身からふるえがこみ上げてくるのを止められなかった。 そこには白髪交じりの老婆の姿はなく、黒髪の若い娘が映っていた。 こんなことあろうはずがない。しかしそれは紛れもなく私自身の顔だった。 すぐさま鏡をたたきつけて壊してしまいたいのに、指は鏡に張り付いているかのごとく一指も動かず、揺れる鏡の中に映る自分を見ているしかなかった。 夫は老いることのない若いままの私の姿に恐怖していたのだ。恐怖しながらも夫は最期まで優しかった。 嗚咽と震えはいつまでも止まなかった。 私は夫を弔うとすぐさまその村を抜け出した。 以来、私は一所に長くとどまることはせず旅を続けている」老婆は大事に抱えていた風呂敷から顔全体が映るくらいの大きめの手鏡を取り出した。手の混んだ細工の施された見事な鏡だった。
男は鏡を覗き込むように顔を近づけた。鏡から磯の香りが漂ってきた。顔をあげると車窓のむこに海が広がっていた。隣の席の窓が開け放たれていた。きっと海の匂いが風に乗って来たのだろう。男は鏡に視線を戻した。
「すべて本当のことじゃよ。お前さんは信じなさるか。そして私を哀れと思うてくれるか」切なく悲しげな娘の笑顔が鏡に映っていた。
どこか懐かしい磯の香りを漂わせながら、列車は海岸沿いをひた走った。
―― 完 ――

